世界遺産タイル|シルクロード・ウズベキスタン陶芸ギャラリー

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東西の門戸、太陽の国ホラズム
年間300日は青空が広がる「太陽の国」という意味を持つホラズムとは、アラビア語でフワーリズム、ペルシア語でフワーラズムと呼びます。アラル海の南岸、アムダリヤ川下流域に位置する歴史的地名を指し、現在のウズベキスタンのホラズム州から、カラカルパクスタン共和国やトルクメニスタン北部まで含みます。ちょうどキジルクム砂漠(赤い砂)とカラクム砂漠(黒い砂)の境界線上にまたがり、アムダリヤ川の潅漑農業で栄えたオアシス都市で、マワラーアンナフル(ウズベキスタン中央部)やホラーサーン(トルクメニスタン・イラン北東部)の門戸となったシルクロードの古都です。
17世紀アムダリヤ川の流路の変化でホラズムの首都がヒヴァに移る
13世紀の中央アジアを治めたホラズムの歴史

そこはトルコ人たちの都市の中でも規模、壮大さ、美麗さや快適さのいずれの点でも一番の町である。町には幾つもの立派な市場があり、広々とした街路、建物も多く、極上の品々がある。町の住人の数があまりに多いので、町が揺れ動く如く、まるで海の大波の如く彼らの人並みで溢れている


        《イブン・バットゥータ『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈物』第11章 1355年》

●ホラズムの歴史
前2000年〜       1000年 ■バクトリア、ソクディアナ、ホラズムという文明体が形成される
4世紀 ■ホラズムの王を意味するホラズム・シャーの称号が存在する
8世紀 ■ウマイヤ朝のアラブ連合軍が中央アジア全域を征服する
9世紀 ■イスラム教が受容され、土着イラン系アフリーグ朝がホラズム・シャーを称する
10世紀 ■土着君主マームーン朝がアフリーグ朝を併合し、ウルゲンチが首都となる
11世紀 ■ガズナ朝のマルムークがホラズムの総督に任命され、ガズナ朝滅亡後はセルジューク朝に仕える
12世紀 ■セルジューク朝を滅ぼし、ホラズム・シャー朝を樹立する
13世紀 ■中央アジアから西アジアに広がるをホラズム帝国を成立させるが、モンゴル帝国の侵攻を受けて滅亡する
14世紀 ■コンギラト部族のスーフィー朝が支配するが、ティムール帝国に征服される
17世紀 ■ヒヴァ・ハン国を樹立。アムダリア川の流路の変化により首都をヒヴァに遷都
19世紀 ■コンギラト朝を成立させるが、ロシア帝国によって滅ぼされ植民地化される
20世紀 ■ホラズム人民ソビエト共和国が成立し、ホラズムの領土は3分割される
「ホラズムの王」を意味するホラズム・シャーの称号は4世紀から存在していました。9世紀からイスラム教を受容するようになり、土着系アフリーグ朝が成立します。中央アジアの歴史上、強大な勢力となったホラズム・シャー朝の建国は、ガズナ朝のティルク系のマルムーク(奴隷軍人)アヌーシュテギーンが、ホラズムの総督に任命されたのが起源で、ガズナ朝滅亡後はセルジューク朝に仕えました。

アヌーシュテギーン死後、その子であるクトゥブッディーン・ムハマンドは、1097年にセルジューク朝から総督を任命されホラズム・シャーを自称しました。ムハマンド死後、その子であるアトスズに世襲されましたが、1135年頃からセルジューク朝からの自立を目指します。

アトスズは1138年にホラズムの南のホラサーンで権勢を振るっていたセルジューク朝のサンジャルによって打ち破られ屈服しましたが、1141年に中央アジアに侵入したカラキタイ(西遼)によってサンジャルが弱体化すると再び反旗を翻し、サンジャルの死後セルジューク朝の解体で、ホラズム・シャー朝は自立を果たします。しかし、カラキタイの勢力拡大の煽りを受け、1172年のスルターン・シャーとテキシュの間で王位争いが起こりましたが、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝は再統合を果たします。テキシュは1194年に一族の悲願であったセルジューク朝を滅亡させイラクとホラサーンを支配しました。

ホラズム・シャー朝はテキシュの子、アラーウッディーン・ムハマンドの治世で大帝国を建設します。アラーウッディーンはホラサーンに侵入したゴール朝を撃退し、拠点都市だったへラートを陥落させました。1212年にはカラキタイ宗主権下の西カラハン朝を滅ぼし、マワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を勢力下に置いたのです。さらには、1215年にゴール朝を滅ぼし、現在のアフガニスタン中央部を征服、1217年にはイラクに遠征してアッバース朝を脅かし、イラン全域のほとんどを屈服させ、中央アジアから西アジアまで広がる大帝国を打ち立てました。


ブハラ州とホラズム州の境界にかかる橋の上からアムダリヤ川を望む

ホラズム・シャー朝の勢力が最大版図を成した直後、1218年にモンゴルの商業使節を殺害したのをきっかけに、モンゴル帝国のチンギス・ハーンによる侵攻を受け、サマルカンドやブハラなど各都市が次々と落城、アラーウッディーンはイランに逃れ、カスピ海の小島で病死します。アラーウッディーンの子ジャラールッディーンはアフガニスタンからインドに後退、イラクを経てアゼルバイジャンに入り、コーカサス地方で勢力を伸ばすものの、1231年にモンゴル軍の掃討を受けて殺害され、ホラズム・シャー朝は滅亡しました。

当時、イスラム世界で最も壮大で豊かだったホラズム・シャー朝の首都だったウルゲンチ(トルクメニスタン北東部)はモンゴル帝国によって破壊されましたが、ほどなくしてアラブ人旅行家イブン・バットゥータが書き記したほどに復興し、再び大都市として栄えました。一時、ティムール帝国によって荒廃はしましたが、17世紀にサファヴィ朝の手にあったホラズムをイルバルス・ハンが奪回ました。その頃、アムダリヤ川の流路の変化でウルゲンチの都市機能が衰微していたので今のヒヴァに遷都し、自らの王朝をヒヴァ・ハン国と称することになったのです。
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